新地新聞(年10回発行)とは別に平成3年(1991年)より年1回、「北新地ガイド(北新地ポケットガイド)」を発行して来ました。インターネットの普及を期に平成11年(1999年)を最後に廃刊いたしました。その創刊号(バブルがはじけようとしていた頃)に掲載された読み物を少し古いですが一部転載しました。
函館へいったとき、松風町のスナックへあてずっぽうに入り(これが楽しくていい店だった)どちらからきたのか、と客やママに問われるままに大阪だと答えた。さあこうなれば「大阪しぐれ」を歌わなくてはならない。
「北の新地は思い出ばかり・・・(作詞・吉岡治)」と大阪人を代表して歌い気持ちよかった。
新地の、上等のバーは、私は黒岩重吾さんに連れていって頂いた店しか知らない。私も黒岩さんもまだ四十代、ともに若かった。夜が更けてゆくままに黒岩さんはお得意の鉄幹の、
妻をめとらば才たけて
眉目うるわしく情けある・・・
を朗々と歌われた。ふかふか絨毯、立派なソファ、美女ぞろいのホステスさんたちとともに聞く、深夜のこの歌は殊更なる哀切な情感にみちていた。黒岩さんは中年になっても熱血少年の心を失わないかたなんだなあとつくづく思った。それになぜか、
ああわれコレッジの奇才なく、
バイロンハイネの熱なきも・・・
の歌は、ミナミの酒場よりキタの酒舗のほうが似つかわしく思えてくるから妙だ。
豪華でないほうの、気楽で瀟洒なバーも一軒知っていて、これはもう何年も昔からの知り合い、マスターはいつも変わらぬ温顔で迎えてくれる。数年前、娘が、結婚したい人がいる、といってきた。私と夫はその青年と娘と、四人でキタで食事をすることになった。けったいな奴やったらすぐ帰る、と夫はぶつくさいっていたが、会ってみるとわるくはなかった。すっかりいい気分になった私は、くだんのバーへ娘たちを案内して、カラオケを歌う騒ぎになってしまった。キープボトルがあるから、キタで飲むときはここへ来ればいい、と私たちは若い者にいってやった。
その次に会ったとき、あの店へ行ったかと聞くと、青年は、「あんな高価そうなトコ、よういきません」と朴訥であった。中々好青年ではないかと、私たちオトナはいい合った。
娘たちは結婚し、出来た子供は今年かぞえ三つだから、お宮参りだなどといって娘は騒いでいる。—— 新地の夜は昔も今も灯とさんざめきにあふれているが、歳月は流れ人は老いる。・・・しかし、キタ新地はやはり「妻をめとらば才たけて」の歌が似合う町のように、私には思われる。哀切なロマンにみちている。
新地には、ステータス・シンボルのようなクラブがいくつかある。
「山名」はその一つである。
かつてのシンボルだった「太田」を譲り受けて十六年、その名前はきらびやかに、夜の街に輝いた。
山名和枝さん。本名である。案外、きさく、庶民的である。インタビューには、こちらが期待する以上に、あれもこれも話してくれる。しかし「いまさら、こんな話、書かれるの、いやなんです」。
だから、できるだけ簡単に書く。
日本郵船の外航船に乗っていた父。神戸・須磨で開いたコーヒー店。映画『夜の蝶』にあこがれて、出発点になったのがクラブ「アロー」。アイ・ジョージと坂本スミ子が専属で歌っていた。
ダンスが好き、歌が好きの二十四歳にとって、めくるめく世界であった。
「こんなすばらしい世界があったのか」
水が合う。「以来、三十年、病気ひとつしません。体動かして働いていると運気がついてくるんです」
もちろん、それなりの苦労はあったに違いない。ナンバーワン。嫉妬。独立。羨望。拡充。失意・・・
しかし、ふりかえれば、そんなことは小さいことだ。
「お金を追うたことはないんです。ずっと仕事を追うてきました」
死ぬまでやりたい仕事である。その自信もあるという。
時代は確実に動いている。かつての夜の社交場のヒーローたちは、次第に年老いて、ホステスも客も、新しがりである。そんな世の中の動きをじっと見ている。
気がついたら、このクラブから三十人くらいのホステスが、ママとして育っていった。チューリップでもグラジオラスでも、新しい球根は親より小さいものだ。しかし、そんな新しい球根も、当世流のバイオによって、自分のように大きい花を咲かせるかもしれない。それを見つづけることもまた、新地のシンボルとして、つらいような楽しいような仕事である。
「後輩たちへのプレゼントになることだけしゃべったつもりですが・・・」あくまで、努力家、コツコツ型らしい思いやりである。
暑さ寒さの彼岸がすぎれば、ひとしお、お酒のおいしい季節。
これでやめよかな、 いやもう一杯という時に使う言葉。
八畳敷とも言われるタヌキの金玉は股いっぱいに広がっている。
股いっぱいが、もう一杯になった。
客:軽くなった銚子を振る。
女将:「どうしはる?」
客:「そやなあ、タヌキの金玉といくか」
女将:「まあ、嬉しい。スーさん、今夜は帰せへんしぃ。ワテも思いっきり呑みまっせ」
そんな呑みかたが懐かしい。
東京でいう煮込みオデン。大きな鍋にいろんなものがグツグツ煮込まれている。
「そこのおいもさん、おくれんか」
若いサラリーマンが鍋を覗いてキツネ色のジャガイモを頼んでる。
「ウチ、おこんにゃくとおだい、頂戴」
コンニャクやダイコンに敬語を使うてたおねぇちゃん。
これが、そろそろ肌寒い風が吹きはじめる浪速の屋台風景やった。
あのおねぇちゃん、いまごろ何やってるんやろうか。
ええ人と結婚したけど、ちょっと味が薄すぎて、
コロみたいに味の濃いオッサンと不倫しながら、やっぱり屋台で関東煮つっついているんやろうか。
ああ寒む、いっぱいイコ。
はものお吸物、きも吸い、夏の大阪には欠かせない御馳走や。
そやけど、あのお吸物が、はもや鰻のきもだけやったら、これは無骨そのもの。
あのじゅんさいが頼りなげに浮いていてこそ、暑気ばらいの味になる。
じゅんさい。睡蓮科の水草。でたらめとか、適当、ええ加減などの意味に使われる。
あのヌルヌルした感じと関係があるんやないかと思うが、わからない。
まあまあじゅんさいな人、と言われる場合、なぜか男性が対象で、不思議に女性相手にはあまり使わない。
おべんちゃらの上手な人というニュアンスもあるようだ。
日の丸の旗を揚げる日。国民休日のこと。
戦争中までは、天長節、紀元節、秋季皇霊祭などいかめしかったが、小学校では、紅白のまんじゅうを配って、子供を手なづけた。
6月〜8月の暑い時にはなくて、春や秋に多い。
いまでは様がわりして、9月は15日が敬老の日、23日が秋分の日と2回ある。
転じて、女性のあの日のことも旗日と呼ぶ。
「きょう、ウチ、旗日やねん」などと、
男性を断る時にも使う。
日の丸の赤色からの連想で、
当然ながらこれは月に1回だが、不思議に2回も3回もある女性もいる。
「ほな、おおきにはばかりさん」
明治時代の船場育ちだったおふくろが人と話をしたあと、いつもこう言って頭を下げていた。
「はばかりさま」
助力を感謝する言葉と辞書にある。たいそうおそれいりますというところか。
「はばかり」には、遠慮とかの意味があり、「はばかる」となると、憎まれっ子世にはばかるのように、逆に幅をきかすという意味にも使われる。
「ちょっと、はばかり貸しとくなはれ」と、来客が腰を上げる場合のはばかりは便所のこと。
「遠慮」がどうして「便所」に化けたのか、大阪弁はむつかしい。
では、おおきにはばかりさん。
アイスクリームがなまってできたのだろうが、アイスクリンにはアイスクリームにはない涼やかさがある。
大阪では1877(明治10)年、はじめて千日前の繁華街で売り出された。
木でできた長い手桶のなかに、しんちゅうの筒が入っていて、その間のカチワリをぐるぐる回しながら売った。
戦争がたけなわになるまで、夏になると、
「玉製アイスクリン」
「別製アイスクリン」
の声が街角から聞こえてきて、いかにも夏の暑さをかもし出していた。
小さなモナカのコップに竹ベラで盛り上げてくれる。
それを落とさないようにして、なめた時の幸せ!
二十数年前、先輩作家に連れられたのがきっかけで本格的に通いはじめました。
新地に行くのは週に一回ぐらい。
行きつけの店は6、7軒あるけど、名前を出すといろいろと差し障りがあるんでやめときます。
僕が新地に行くのは、仕事を一生懸命した時です。
「今日はこれだけ仕事をしたから、ごほうびに酒を飲ませてあげる」という考えなんですよ。
何もしなかった日に飲みに行くということはありませんね。
ろくに金も体力もない身で新地をどうこう言う資格はありませんが、単に女性がいるだけというお店は、じきに足が遠のきます。なにか特徴がある店がいいですね。とにかく、楽しい時間が欲しいですから。
新地というのはやっぱり大人の街ですね。カッコよくスマートに酒を飲むというのが似合っていますよね。ドンチャン騒ぎの好きな若い人にとってはつまらないかもしれませんけどね。
26、7歳の時に西川きよしに連れられて初めて新地に行きましてん。きれいな女の子がようけおって、いっぺんに病みつきになりましたわ。それからは毎晩、新地通いですわ。通算したら千軒は行ってまっせ。
当時は月給が3、4万円やのに、新地の飲み代だけで3、40万円でっせ。しょっちゅう怖い兄ちゃんが劇場まで集金に押し掛けて来よってね、舞台が終わったら、裏口から飛んで逃げましたわ。
失敗もようけありまっせ。ホステスを口説いて、その子のマンションの前まで行きましてん。そしたらその子が「旦那が来てるかも知れん。もし来てなかったら部屋の電気をつけたり消したりするから、その合図で入ってきて」言うんですわ。じっと部屋の方を見ながら外で待ってましたわ。蚊に噛まれながらね。2、3時間たっても電気はついたままでんねん。おかしいなあ思たら、その女の子、酔うて寝てしもうてましてん。ワヤでしたわ。
最近は酒量も減ったし、新地に行くのは月に一回位ですなあ。
昔は師匠(故・六代目松鶴)に連れられてよう行きましたわ。うちの師匠は酒がめちゃめちゃに好きでしたやろ。3、4軒ハシゴして、お開きが午前3時ごろ。付いて歩くのに、そら体力いりましたで。
新地へ行ったら、まず寿司屋の「玉平」で腹ごしらえして、スナック「ブンガ」へ顔見せます。ここのママとうちの女房が知り合いですねん。新聞記者とかの仲間うちが多うて、家庭的な雰囲気の店ですわ。
この世界に入ったころは、「新地て“ドンナンカナァ”、大人の世界で飲みたいなあ」いうて、あこがれてました。
今、新地の高級クラブいうても、音楽は鳴ってるし、ホステスやボーイさんは店の中をあちこち動き回っているしで、戦場みたいな空気が漂ってて、あんまり落ち着けへん。誰に気兼ねせんでもええ、静かな大人の雰囲気が味わえる、ほんまもんの高級店が欲しいですな。
キック(株)は1991年、北新地を利用するお客様、お店、出入業者など、北新地に関わる方に役立つ情報を提供する事を目的とし、(株)北新地情報センターとして設立されました。設立当初より、全店の店名・電話番号が掲載された[新地新聞](A1サイズのMAP・年10回発行)を発行してきました。バブル崩壊以降の不況下、少しでも地域の活性化に繋がればという思いで、1996年よりインターネットで「北新地総合情報サイト」(KGNET)として北新地の情報を発信しております。
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