現在、一般に「北新地」と呼ばれているのは、北は国道2号線・南は堂島川・東は御堂筋そして西は四ツ橋に囲まれた、東西約500m・南北約250mのほぼ長方形の地域(地番では曽根崎新地1丁目・堂島1丁目・堂島浜1丁目)になります。
その沿革は、江戸時代元禄元年(1688年)の「堂島新地」の誕生に始まります。当時、現在の新地本通りと堂島上通りの間には、堂島川から分流した曽根崎川(蜆川)が流れており、堂島川との中州が堂島と呼ばれる砂州でしたが、貞享年間(1684〜87)、幕府の命を受けた川村端賢が淀川本支流の各所で改修工事を行い、その一部の堂島川・曾根崎川の浚渫工事によって新しくし堂島新地十一町が出来上がり、元禄元年にその町割が行われて「堂島新地」が誕生、茶屋株が与えられ繁栄がはかられました。
さらに元禄10年には「堂島の米市」が設けられ(今の新ダイビルから全日空ホテル付近)、堂島新地は、堂島川対岸の中之島に多数存在した各藩の蔵屋敷の役人や、米市の商人を相手にした遊所として栄えました。その後宝永年間(1704〜11)には曽根崎川の北岸が改修され、宝永5年(1708年)に町割され、現在の地番「曽根崎新地1・2・3丁目」ができました。
その間「堂島新地」は、堂島の米市の急速な発展により、仲買人や両替商が次々に店舗を構えてビジネス街化し、遊所は曽根崎川を渡った川向うの曽根崎新地へと移動し始めました。
米市が正式に公認された享保16年(1731年)頃には、商業地の堂島新地と遊所の曽根崎新地とにはっきりと分けられるようになり、天保13年(1842年)に曽根崎新地は公許の遊所地となりました。ただその頃の曽根崎新地の中心地は今の北新地内ではなく、四ツ橋筋の西側、今の小学館ビル辺りの福島区との境付近で、「心中天の網島」の小春と治兵衛が逢瀬を楽しんだといわれる大和屋も、この辺りにありました。
明治に入ってから、お茶屋の中心は徐々に四ツ橋筋の西側から、今の北新地の方へ移って来ました。明治42年の「北の大火」のあと、明治45年に曽根崎川が埋め立てられ、街路が整備されて堂島新地と曽根崎新地が一体化してほぼ現在の地形となり、「北新地」の原形が出来上がりました。
ちなみに大正7年末の統計では、当時の北新地には芸妓置屋11軒・貸席153軒、芸妓825人という状況であり、また昭和12年末の統計では芸妓置屋9軒・貸席155軒、芸妓610人という状況でした。その華やかさは、南地(ミナミ)のように騒がしいものではなく、何となくしっくりと落ち着いたものであったそうです。
先の大戦では、この街の殆どが焼き尽くされ、戦後諸規則も改められ、従来の置屋は芸妓扱所となり、貸席も待合に変りました。そして、昭和30年代後半からの高度成長期以降、北新地にはバーやクラブが増加し始め、この頃を境に、元禄以降続いてきたお茶屋の町から、社用を中心とした今のバー・クラブ街へと変身し、現在に至っています。
明治40年代まで存在した堂島川の分流で、大江橋の少し上手(今の堂島関電ビル西側)から北へ分岐し、すぐに西へ折れ、福島の手前の堂島大橋の西で堂島川に戻る全長僅か2500m程の川ですが、曽根崎新地誕生の土台となり、北新地にとっては今はない幻の故郷です。
曽根崎新地では別名「蜆川」といい、その他梅田川・福島川と、各地域で住民が銘々勝手にその呼び名を変えていました。
明治42年に「北の大火・天満焼け」と呼ばれるこの付近の殆どが焼き尽くされる大火がありました。この時、蜆川は焼け跡の瓦礫捨て場となり、明治45年に緑橋(今の阪神高速道路出入橋出口北側付近)以東の上流部分が埋め立てられました。そして大正13年には残りの部分も埋め立てれられ、川はその姿を消しました。現在、北新地の 3ヶ所その他にその記念碑が建っています。
緑橋をすぎて新地の細い筋をいくとそこに小橋がかかっていた。 幾本かの幟が橋詰に立てられてあった。そのころの北新地の面影は、梅田から三間幅の細い道路が南にのびて、それが鍵の手のように曲がりくねって、木橋の大江橋にでていた。北新地はその細い道路に交叉して、 一層細い道路が幾筋か東から西へうねって、まことに狭斜の巷という感じを現していた所である。その細い道路にならぶお茶屋の裏手に、これまた細い蜆川が流れていた。桜橋の橋上より東方を見渡すと、 川の両側は石崖造りの上に、川に半分乗り出すように、茶屋の奥座敷がずっとならび、両側の家から手でも出せば、握り合うことができるように狭く見え、それがまた美しく、満潮の澄み渡った川水にさかさに影を宿していた。
−篠崎昌美著「続浪華花ばなし」−
新地の通りの道幅は狭く、一人乗りの人力車がすれ違う位の広さで、両側に屋号を書いた懸行灯がずらりと並んでおり、 その軒は長く道路に伸びて、家々を一層深く見せていたそうです。お茶屋からは、北野・中津あたりの一面の菜種畑越しに北摂の山々が遠望でき、毛馬閘門の出来るまでは、大川の流れもまだ清かったので、夏の夜などは両側の家の火影がゆらぐ 川面に、お客・芸者を乗せた、赤い座布団・煙草盆・酒杯などを持ち込んだ涼船がゆるやかに往来していたそうです。
北新地からは、戯曲に名を残す遊女も多く出ました。近松門左衛門の「曽根崎心中」のお初と徳兵衛や「心中二枚草紙」のお島と市兵衛、「心中天の網島」の小春と治兵衛、紀海音の「梅田心中」のお高と弥市、 それに並木五瓶の「五大力恋緘」の菊野などが有名です。
今日に続く北新地の基礎を作ったのは、何と言っても江戸時代の各藩「蔵屋敷」と「堂島の米市」の存在です。ここでは、その各々について少し述べます。
『 蔵屋敷 』
大阪の蔵屋敷は、加賀藩が天正年間に設けたのが最初で、江戸時代になると各藩が競って設けるようになりました。
蔵屋敷は、船着きの便利な場所が選ばれ、一番多かったのが中之島で、次いで堂島・天満・土佐堀・江戸堀の順でした。往時、中之島の渡辺橋から西は、見渡す限り蔵屋敷の瓦葺き塀が続いていたそうです。明治4年7月の廃藩置県で蔵屋敷は廃止され、翌5年末にかけて、明治政府は蔵屋敷をことごとく取り上げ、大蔵省及び大阪府で使用するものを除き、国有化した上で府を通じて民間に払い下げました。こうした蔵屋敷の廃止は、商都大阪に大きな打撃 を与えましたが、反面その跡地は新しい時代に向けての利用に願ってもない適地となり、特に各藩蔵屋敷が密集した中之島跡地には、さっそく役所や学校が進出し、次いで会社・事業所・倉庫業等が繰り込んで新事業を展開し、中之島は大阪の政治経済文化の中心地となり、大阪の文明開化の原動力となって、今に至っています。
『 堂島の米市 』
各藩蔵屋敷では各々その蔵物を販売し、蔵役人がその任に当っていましたが、寛永末年(1644年)頃から、取引量の増加に伴って町人にこれを任せるようになり、この町人を「蔵元」といいました。その中で一番大きかったのが北浜の淀屋で、やがてその店先で米市が立つようになり「淀屋の米市」といわれ、大阪の米市の起源となりました。
その後堂島新地が開拓され、元禄10年(1697年)に米市は堂島に移転、「堂島の米市」となり、以来この地が永く米相場の所在地となりました。明治維新前後の動乱期、明治2年2月に石建米売買は禁止され、諸物価の基準である米相場の立会いが無くなって一般経済にも影響を及ぼしましたが、明治4年7月には「堂島米会所」が設立され復活、その後、「堂島米商会所」「堂島米穀取引所」と変遷しました。
日華事変勃発の戦時体制下、 米穀配給統制法の公布となり、昭和14年8月25日の立会いを最後に、240余年にわたる幕を閉じる事になりました。
昭和30年1月、二人の童子が稲穂を持っている記念像がこの地に立てられ、天下の台所を支えた往時の姿をしのばせています。
堂島が開拓されるはるか以前、推古天皇元年(593年)の聖徳太子による四天王寺創建時、淀川の八十島の一島を選んで薬師堂を建立し、「なにわの守護」とされたという由緒あるお堂です。堂島という地名も「薬師堂のある島」からそう呼ばれるようになったとも言われています。
堂島が拓けてからは「堂島のお大師さん」と呼ばれ、人々の信仰も篤かったようです。元は先年まで毎日新聞社があった所にありましたが、明治44年にその地に芝居小屋「堂島座」が建ち、お堂はすぐ傍の路地内(今の堂島薬師堂ビル南側)に移されました。その際、それに関係した人が次々に原因不明の病気で亡くなり、たたりといわれました。
その後大正11年に毎日新聞社が堂島座を買収して社屋を建て、先年その毎日新聞社も移転し、平成11年春、その跡に「堂島アバンザ」が完成しました。そしてその際、薬師堂も超モダンな建物となって、約九十年ぶりに元の場に戻りました。
http://www.avanza.co.jp/avanza/bil_gaiyou/dojima_yakushi.html
先の大戦後、ちょうど堂島の米市場があった辺りの堂島浜1丁目には、4300坪におよぶ進駐軍の白い高い塀に囲まれた拘置所があり、監視塔がそびえ、日本人はオフリミットでした。昭和26年、そうした接収状態のまま大阪建物(株)がそっくりここを一億円余りで買い取り、当時いろいろと話題になったそうです。そして昭和33年5月、今の新ダイビルが完成しました(その後昭和38年に建て増し)。また、その土地の一部は切り売りされ、それが「大阪テレビビル」となり、のちに大阪テレビ放送と朝日放送が合併して、ABC朝日放送として知られる、大阪で初めてのテレビ局の開局(昭和34年)となりました。その後、朝日放送は大淀に移り(昭和41年)、長らくその跡は駐車場となっていましたが、昭和59年10月に全日空ホテルが開業し、平成20年10月にANAクラウンプラザホテル大阪と改称して、現在に至っています。
この街は昭和35年頃にはまだ、待合を中心とした街でしたが、高度成長の波に乗り、昭和38年には「待合・料亭が300軒、それにも増してバーやクラブが、400軒…」とその数が逆転して、今の社用を中心としたクラブ・バー街へと変わって来ました。
そして、それから僅か7年後の大阪万博(昭和45年)の頃に、今の北新地はそのピークを迎えます。
大雑把にいって、当時の店の数は現在の約半分位でお客様の数は倍以上、それでいて料金は今とほぼ同じで家賃・人件費等の経費は半分以下という状況で、その頃の北新地の商売がいかにオイシイものであったかが、容易に想像できます。(ちなみにそれから8年後の昭和53年末の統計では、バー・クラブ・ラウンジ・スナックが約1600軒、食べ物屋さんが約200軒の計約1800軒となっています)
当時この辺りの銀行におられた方の話では「実際あの頃、北新地で店をやってると聞くと、一本は持ってると私共は認識してました」とのことで、その一本とは一億円のことであり、またその頃、当時の花形産業だった某繊維会社の係長だった方から「あの頃、半年の交際費が600万円あったものの使い切れず、上司にその旨を告げると<必ず使ってしまえ>とのことで、それで止むを得ずホテルを一晩借り切って、お得意様150人程でドンチャン騒ぎ、それでようやく使い切ったことがあった」との証言もあります。当時の大卒初任給が5万円に満たなかったことを考え合わすと、その凄さがよく分かり、とても先のバブル時代の比ではありません。
その後、ドルショック(’71=昭和46年)・オイルショック(’73=昭和48年)・円高不況(’85=昭和60年)等々、日本経済には次々と困難が襲い、その過程で、企業の交際費に対する締め付けも徐々に厳しくなり、以来この街の低落傾向は続いていきます。先のバブルは、そうした下降傾向が一時大きく緩んだものでしたが、主に金融・不動産といった投機がらみのまさにバブルだったと思え、国全体の皆に勢いのあった昭和40年代中頃とは、かなりその内容に違いがあったと思います。
そして現在、バブル崩壊後すでに10年程が経過したものの、景況は一向に回復の兆しもなく、全ての分野で、根底からの構造改革が進行しつつあります。そうした中、万博当時の活況を経験した古くからの店やホステス・男子従業員らは、継承すべきものを継承する間もなく、その殆どがバブル崩壊後早々にこの街を去り、各店は今、生き残りに必死の日々を送っています。又、人々の気質も変化して、いわゆる「新地らしさ」は、急激にその姿を消しつつあります。特にここ数年来、「新地で働いたことも無い」という外部からの人達が、ママや経営者としてお店を開店するケースが増えて来ており、一層「らしさ」の消失に拍車をかけています。でも、だからと言ってこの街が無くなる訳でもなく、今は「新たな北新地誕生」への産みの苦しみの中にあるように思えます。江戸時代以来の遊所としての”おもてなしの心”を大切にして来た歴史あるこの街が、これからどう変って行くのか、じっくりと見つめていきたいと思います。(平成13年記)
バブル崩壊後の「失われた10年」を経て、日本経済は回復し、各企業の業績も上向いて来ましたが、企業の戦場が世界的になったこともあってか、かつてのように業績が回復したからといって、日本独自ともいえる社用交際費の紐はゆるむことはありませんでした。結果、企業の社用交際費に頼ってる北新地の景況は大きく回復することはありません。一つには、店舗取得等の開店費用が大きく低下したこともあってか、店舗数がバブル以降も減少せず、需要と供給のバランスが崩れてることが大きな要因だと思えます。又商品であるホステスが、質量共に低下していることも要因の一つでしょう。いずれにしろ、企業の業績が回復しても、それに頼っている北新地の景況はさほど良いとはいえず、今後ともこの傾向が大きく変わることはないように思えます。(平成19年記)
その繁栄と密集度から、かつては四千店とか六千店といった話も耳にしましたが、本当はもっと少なく、バブル後も続いた新ビル建設や店舗分割で最も店舗数が増えてる現在で約3700店といった所です。その内の約2割700店程がこの不況で休店もしくは閉店となっており、現在実際に営業しているのは約3000店程です。業種別では、クラブ・ラウンジ・スナック・バーといった飲み屋さんが最も多くて約2200店、次いで料亭・割烹・各種料理・うどん・お好み焼といった食べ物屋さんが約600店、そして残りの約200店が、ブティック・喫茶・くすり花等の各種物販、不動産屋等々となっています。毎月少ない月でも50店程が、多い月では100店以上が開店・閉店・移店という形で動いており、計算上では4年程で総ての店が入れ替わるという、かなり激しい動きとなっています。特に、開店して2〜3年までの新しい店の閉店が多く、北新地で生き残っていく難しさを物語っています。
前述の如く、こうした不況下でも店の数は着実に増え続けており、全体としてバブル時(約3000店)から、空室も入れた店数で約700店、また営業店数でも100店近くも増えています。この需給の極端なアンバランスがこの街の景況をより一層悪くしています。一つには今も毎年新しいビルが建ち続けているからであり、閉店した店の細分化による増加も、バブル崩壊後絶える事がありません。結果当然の事として店の保証金は下がっており、今や信じられない安さで店が持てるようになっています。それもあってか、全く新地で働いた経験のないママ・経営者も増えて来ており、また従来にはなかった若者向けの店等も増えて来て、これらも又”新地らしさ”消失の一因ともなっています。
こうした事から現状が完全なオーバーストアになっているのは明らかで、北新地内を従来からの中高年向だけでなく、新しく若者向・家族向等々にゾーン化するといった、思い切った対策が必要とされているようにも思えます。(平成13年記)
「近頃は新地らしさが無くなった」とは、もう随分久しく言われていることですが、この「北新地らしさ」について少し考えてみたいと思います。
豪華な内装、洗練された魅力あるホステス、良く教育された親しみある男子スタッフ、行き届いたサービス…。昔は各店のミーティング等で、「夢を売っている商売だから…」とよく言われたものですが、こうした他の飲食には無い高い精神性を伴った非日常的な空間と時間。当然かなりの対価を要したそれら一つ一つが、あるいはそのおもてなしの総体が、いわゆる「新地らしさ」と呼ばれるものでした。
昭和30年代後半以降、日本経済は高度成長期に入って企業の社用・接待が増え、それまで江戸からの流れを汲んだお茶屋街であったこの街は、急速に現在のバー・クラブ街へと変身していき、昭和45年の大阪万博でそのピークを迎えました。その頃のお客様の財布(社用接待費)は、今と違って驚くほどの余裕があり、それがお店に還元されました。今と比べて料金はそれ程違わないものの、店舗価格や従業員の給料等の経費はかなり安く、その為『余裕』は当然、お客様の財布からこの街全体に広がり、店舗や内装は勿論、以前のお茶屋街から伝統の、「新地らしい」しっとりとした「おもてなし」のサービスを実現させました。
又当時は、世の中全体がまだ今ほど豊かでない為、女の子の職業選択の幅も限られており、かなりの高給ということもあって、比較的容易に商品である女の子に魅力ある優れた人材が集まりました。当時の時代背景である『ハングリー』さの中にあったこうしたママ・ホステスそして男子スタッフは、今では死語となった且つサービス業には無くてはならない「滅私奉公」を自然に身につけており、これまた「新地らしい」サービスを実現させました。
こうしたいわば『余裕とハングリー』が「新地らしさ」の生みの親であり、その後バブルまで、その流れは各店・各従業員に受け継がれながら、年々細くなりながらも続いていきました。バブル時、それまではある程度の経験と年齢を経なければなれなかったママに、若くても売上げさえあれば起用されるといった、総てが拝金主義となり、「新地らしさ」=高額という歪なものになってしまいました。
そして今、厳しい景況下でお客様の財布は年々厳しく締め付けられ、時間的にも余裕の無い日々となっています。一方店舗数はそれでも増加の一途で、只でさえ細くなったお客様の財布をより大勢で奪い合うことになっています。又世の中全体が豊かになって女の子の職業選択の幅が広がり、かつてあった新地とそれ以外の地域との給料格差も無くなり、何よりも自分本位になったママ・ホステス等に、以前のような人材を期待する事は出来ません。こうして、かつての余裕の欠片も無くなったお客様と各店、そしてハングリーさとは無縁な従業員。ここからはもはや、夢を売るかつての「新地らしさ」は期待出来ません。
21世紀を迎えて時代は今、大きく動いています。人々の考え・気持・生活も大きく変わって来ました。そんな中、北新地も大きく変わるのではと思えます。それがどう変わっていくのか分かりませんが、この街が必要とされ存続していく以上、きっと「おもてなし」の形を変えた新たな「新地らしさ」がそこからは生まれてくると思えます。(平成13年記)
北新地の店舗賃貸では、「権利物件」「リース物件」という、一般には聞き慣れない言葉が使われます。この両者、一体どういうもので、どう違うのでしょうか。
*権利物件の成り立ち
昭和30年代半ばから、北新地は従来のお茶屋街から今のバー・クラブ街へと急速に変身しました。その後昭和45年の大阪万博を経て昭和末期・平成初期のバブル時まで、街は拡大発展を続けて来ました。その為、ほぼ一貫して需要に追いつかない店舗不足の状態が続き、物件価格と家賃は、基本的に右肩上がりが続きました。それは、従来の平屋が続々とレジャービルに建て替えられて行く過程でもあり、そのオーナーの多くは、ビル業を本業とした人達でなく、元はそこで旅館や料理屋、待合を経営していたというビル業とは縁のないこの街の人達でした。そうした土壌から権利物件は生まれ、バブル崩壊までこの街の店舗賃貸のほとんどは権利物件でした。
*権利物件の仕組み
権利物件の仕組みを簡単に説明しますと、先ず新しくビルが建ち、15坪の1室があるとします。ビルはこれを例えば2000万円の保証金で貸します。この時部屋はがらんどう(スケルトン)の状態です。これを借りたAさんは、この部屋を自分好みの内装に仕上げて、開店します。会社の事務所と違い、この商売では内装も営業する上で大きなウエートを占めます。内装に例えば1500万円かかったとすれば、Aさんはこの部屋に2000万円の保証金と1500万円の内装費の計3500万円をかけたことになります。数年後、Aさんはより広い店へ移る為あるいは閉店の為にこの部屋を出ることになり、ビルでなく不動産屋に、次にこの部屋に入る人を探してもらいます。不動産屋はビルにAさん退出の意向を伝え、追加保証金の額を聞きます。ビルはその時の景況により0から数百万円迄程の範囲で額を決めます。仮に200万円とします。又ビルに直接返還した時の差引き相当額(通常保証金の2割)は名義変更料としてビルに納めます。この場合400万円となります。退出時、一般に内装は次の人の為にそのままにして出ます。不動産屋はこの場所と内装が気に入ったBさんに、仮に3500万円でこの物件を斡旋したとします。ビルは賃借人の名義書き換えと、新しい契約書を作成します。3500万円を手にしたAさんは、この中から追加保証金200万円と名義変更料400万円をビルに支払い、さらに不動産屋に斡旋手数料を支払います。結局Aさんの手元には2800万円程が残りました。保証金と内装にかけた額には足りませんが、ビルに返還したら一般に保証金の2割引1600万円程しか手に出来ず、その差は歴然です。その為、新たな買い手のあったバブル崩壊以前では、退出時にビルに返還することは、100%ありませんでした。一方、この店を3500万円で手に入れたBさんにとっては、保証金は2200万円となり、権利金が1300万円となります。多くの場合内装は手直しだけで済み、それ程かかりませんでした。こんな所から、権利金の権利とは内装費だと言う人も多くいます。ただそれ以外にも、場所が気に入っただけで、前の内装を壊してすっかりやり直す場合も多々あり、どちらかというと場所が優先されるので、権利物件の売買できる権利とは、「その場所の営業権=賃借権であり、時に内装費を含む。」というのが妥当な定義だと考えられます。又ビル側から見ると、権利取引では追加保証金・名義変更料といった名目で、一方的にお金が入ってくるばかりで、ビルが預り保証金を返還することはなく、元来ビル業でないオーナーが多かった為に、この変則的な形態が受け入られ易かったと考えられます。バブル時には、億の売買価格に対し保証金がその2,3割程といった物件も多数ありました。
*権利物件の消滅
権利取引は、景況が右肩上がりで、その都度新たな買い手が現れるからこそ可能なシステムですが、バブル崩壊以降、特に阪神大震災以降は常に空室が多数あるという状況となり、売り手が望むような新たな買い手はもはや存在しなくなりました。その為各テナントは、退出時にはビルに返還するしかなくなり、リース物件の時代となりました。
*リース物件の成り立ち
昭和50年代の前半、2度の石油ショックで北新地の景況も落ち込みました。その頃すべては権利物件でしたが、売ろうにも思うような買い手がなく、カラ家賃を払って買い手を待っている店が何軒もありました。そんな中、買い手が付くまで知り合いに家賃だけで店を貸す所が現れて来ました。貸し手にすればカラ家賃を払わなくて済み、また借り手にすれば、売れるまでという期限付ながら、保証金も不要で店が持てる訳で、貸し手借り手双方にメリットがありました。さらにビルにとっても、閉店状態で灯の消えた店がなくなるメリットがあり、本来又貸し転貸は禁止ですが、黙認する所が増えて来ました。これがリース物件の始まりです。そのうちこの形態にもきちんとした契約書が交わされるようになり、保証金も必要となりました。当初は、思うような買い手が現れるまでの又貸しが大部分でしたが、始めから店を営業する為でなく、保証金と家賃差額(リース家賃は本来の家賃よりかなり高め)の収益を目的に、権利物件を賃借してリース貸しするといったケースも登場して来ました。さらにバブル崩壊後は、権利物件の借り手ばかりだったリース物件の貸し手に、ビル自体が直接参入するようになって来ました。当初は、権利での借り手が無いのでやむなくリース貸しにするといったケースが大部分でしたが、間もなくほぼ全て、新しく建てられるビルも含めて、リース貸し物件のみとなり、従来からの又貸し転貸でのリースは、古くからの一部を除いて消滅しつつあります。
*リース物件の仕組み
「2年契約(更新時に家賃1ヶ月分の更新料)・内装済み(中古)・保証金は家賃の10ヶ月分で退出時は8割の返還・家賃は権利家賃に上乗せ・第三者への転売は出来ず貸主への返還のみ」というのが、リース貸しが確立された頃の、一般的な契約内容でした。今ではこのうち、更新料不要の所が増え、家賃も、隣室のバブル以前からの権利物件より安いといった場合も多々あり、内装も契約時期によっては借り手の意向を反映した新装となるなど、不況に加えて、絶えず総数で2割前後の空室がある為、借り手有利の状況となっています。
*権利物件とリース物件の区別
権利物件とリース物件との最大の違いは、退出時に第三者へ賃借権を譲渡できるかどうかという点にあります。契約書上では通常「ビルの承諾なく賃借権・営業権の譲渡は出来ない」「賃借権・営業権の譲渡は出来ない」という記載に区別があったり、表紙に「リース契約」と書かれている場合もありますが絶対ではなく、契約書上で両者を明確に区別する事は困難です。契約当初に、ビル・賃借人・不動産屋の間で口頭確認されるのが一般的です。権利物件とリース物件が並立していた頃は、先ず保証金の額がリース物件の方が一桁安く、その分家賃はリース物件の方が割高となっていました。そのため保証金の額を見ただけで、その区別は出来ましたが、権利物件がほぼ消滅した現在では、両者を区別すること自体が無意味となっています。ただここに来て、空室解消の為か、 リース物件並みの保証金で賃借権を譲渡できる=権利物件も登場して来ており、新たな権利・リース並立時代が来るのかもしれません。
クラブとスナックの中間業態を指す呼称として北新地で生まれた「ラウンジ」という言葉。北新地では飲み屋さんの圧倒的多数がラウンジであり、今では銀座や中洲等、全国でも見かけるようになりました。ではその「ラウンジ」という呼称、一体いつ頃どういう経過で生まれ、広まったのでしょうか。
今から20年以上前の昭和54年夏、「クラブD」を経営していたIさんは、当時ジリ貧だった経営を立て直す為、店を全面改装し、何か目新しいものをと考えました。店の広さは17坪。当時は50坪以上の大店がごろごろとあった時代、その中で僅か17坪の店でクラブを名乗っていることに抵抗のあったIさんは、この際、業態を表す言葉(クラブ)も変えようと考えました。当時あった言葉は、クラブXX・ミニクラブXX・メンバーズXX・サロンドXX・ナイトインXX・マイルームXX・XXの部屋・スナックXX・バーXX等々でしたが、そのどれもしっくりくるものが無く、それで従来無かった新しい言葉を付けることにし、色々と考えた末に浮かんだのがホテルのラウンジ。様々な人達が行き交い、束の間の休息と安らぎを得る落ち着いたスペース。何となく今から始める店にふさわしいと思ったそうです。が僅か17坪の店と広々としたイメージはそぐわない。それでラウンジの前にバーを付けて、バーラウンジDとしました。また7人程いたホステスには全員、白のブラウス・蝶ネクタイ・黒のロングスカートを制服としました。そして出来上がった店は、半円カウンター10席・ボックス3卓9席・アップライトピアノ1台という造りで、客単価約8千円、営業は月〜土。これがふたを開けてみると、年間を通して一日平均約40人の客数となり、バカ当たりしたそうです。当然同業者の見学も多く、店の造りやホステスの服装等を真似る店が続出し、店名の前に付けたバーラウンジからラウンジだけを取ってつける店も増え、それまで1店のラウンジも無かった北新地に、数年を経ずして多数のラウンジが誕生したそうです。その後、店の造りや服装はともかく、ラウンジという呼称は独り立ちして、今日の隆盛に至ったという次第です。(平成12年記)*写真は当時のもので、内すでに物故者2名だそうです。
イチゲン【一見・一現】(名) 花街用語。 初めてその遊女を揚げて遊ぶこと。初会(しょかい)。後には、その茶屋のなじみでない初めての客の遊興を指していった。一現は当て字である。『浪花方言』(文政)に「いちげん、一見なり。遊里の言葉、町にてもいふ」と見える。一見客とは、初会の客のこと。近松の『心中刃は氷の朔日』(宝永)中の巻に、「今日の客は、一見の田舎侍」。同『生玉心中』(正徳)上の巻に、「大和の一見客が」。『大坂穴探』(明治)花街の部に「一現茶屋と云ふありて、現金払の青桜もあれども、此地の風習として是を等外青桜(ぢゃや)とも呼びなし、品位遥かに下れり」。戦前、一見茶屋では、なじみでない客でも現金取引によって自由に遊ばせたもので、難波新地芝居裏や吉原(新町)などには、表の電灯の丸笠に赤字で「一現」と記した店が軒を並べていた。−牧村史陽著「大阪方言事典」−
すべての飲み屋さんは、風営法の関係もあって、必ず店内が見渡せ、お客様は当然のことながら、他のお客様の存在を肌で感じながら、店内での時を過ごします。そして、北新地の殆どのお店は、企業の社用客(≒中高年・スーツネクタイ姿)が中心で、料金も安いとは云えません。もし同じ店内に、若者だけのお客様がいたり、作業服のお客様がいたり、ラフな格好のお客様がいたりすると、店内は何となく落ち着きません。お客様は、肌で感じる他のお客が自分と同質だからこそ、心からくつろげるのです。
それは、飲み屋さんがお客様に対し、店のスタッフ(主にホステス)との会話や、店内の内装、他のお客様の存在等から生み出される、「店の雰囲気」といういわば空気を商っているからであり、それだけに、店のスタッフとお客様の内容(客層)は重要です。そのため各店では、お客様に心からくつろいで頂く為に、スタッフの人選・教育と共に、店内が同質のお客様だけとなるよう、絶えず気を配っています。また、例え同じような格好をされたお客様でも、紹介もない全くの初めてのお客様(=一見)であれば、店側は、そのお客様がどのような方か分からず、十分なおもてなしができません。以上のことから、お店は、お馴染み様とその紹介客だけを対象とするようになり、一見さん(一見客)お断りとなるのです。特にクラブ・ラウンジといった所で、また格が上と云われるお店ほど、その傾向は強いようです。このサイトで、飲み屋さんのお店案内が伸びない最大の要因です。
ただ、多くのお店では、絶えず良質の新しいお客様が欲しいのも事実で、年に何組か、それこそ全くの飛び込みや、道やエレベーターの中でのちょっとした出会い等々から、一見さんの来店はあり、その都度、お店がその一期一会を判断することになります。また時代の流れとして最近では、料金の安いお店を中心に、一見さん歓迎のお店も確実に増えてきており、北新地での「一見さんお断り」は、徐々に崩れつつあります。
一方、食べ物屋さんは、雰囲気という実体のないものでなく、「料理」という形あるものを商っている為、飲み屋さんほど一見さん云々といったことはありません。そのため当サイトでも、飲み屋さんに比べて、食べ物屋さんのお店案内数は比率が高くなっています。ただ、接待等、社用客を中心としたお店では、同じような理由から、やはり「一見さんお断り」のお店は少なくありません。
お客様が店を選ぶように、店もお客様を選ぶ。この不遜ともとられかねない「一見さんお断り」の慣習ですが、反面又「新地らしさ」の維持に貢献しているのも事実で、北新地という街を考える時、「一見さんお断り」もまた、この街の文化であると思え、「一見さん歓迎」のお店ばかりになると、そこはもう北新地ではなくなるように思います。
よく北新地は、銀座と対比されます。「東京の銀座、大阪の北新地」という訳です。実際、夜の街を歩くと、同じ大阪のミナミよりも、銀座の街の空気は驚くほどよく北新地に似ています。それは、同じように飲食ビルがぎっしりと立ち並んでいる街並みだけでなく、この二つの街のメインのお客様が、サラリーマンを中心とした社用族のため、すれ違う人達の姿・雰囲気がほぼ同じに見えるからだと思います。
このように、夜の北新地と銀座は本当によく似通っていますが、街そのものは決して同じではありません。先ずその成り立ちからして、北新地は、江戸時代の堂島米市場に集う各藩蔵屋敷の役人や商人達をおもてなしする場として誕生し、のちには船場商人、さらには社用族の接待の場として、常に夜だけの社交の場として発展して来ました。一方銀座は、小売業主体の商業の街という、昼の街として発達して来ており、日本一の商業の街となっています。そういう意味では北新地よりもむしろ、心斎橋筋という江戸時代からの小売業主体の商業の街という顔を持つミナミが、その街の成り立ちからしても、現在、「昼の顔と夜の顔」を併せ持つ街としても、銀座に比すべき街だと思えます。
従って、「東京の銀座、大阪のミナミ」という方が適当なのかもしれません。銀座とミナミの昼の違い、あるいは夜の違い、それは東京と大阪という街の違いから来るものだと思え、だから一層「東京の銀座、大阪のミナミ」という対比が大切なようにも思います。そういう観点からすると、北新地と銀座は対比するものではなく、夜の社交の街として、ほぼ同じように思えます。
夜の社交の街として、銀座とほぼ同じといえる北新地ですが、実は見方を変えると、世界唯一の街ともいえます。それは、店舗数が3000以上ある夜だけの街でありながら、1軒の風俗店も無い健全な街!ということです。銀座は、その街中に某化粧品会社の本社があったり、各種物販の店があったりして、昼と夜、両方の顔をもっていますが、北新地は、そのほぼ総てが飲食店で夜だけの営業であり、夜だけの街ともいえます。そんな大きな夜だけの街でありながら、1軒の風俗店も無いのは、世界広しといえども、恐らくこの北新地だけだろうと思います。キーワードは「安全・安心・健全」。従って、これからの北新地を考えて行く上で大切なのは、へたに昼の顔を持つことなど考えずに、この世界で唯一の「健全で安心できる夜だけの街」という特色をいかに生かしていくかを、突き詰めて考えていくことが大切だと思います。
2月3日の節分の前後、北新地の各店では『お化け』と称して、ホステスさんが様々な格好に化けます。街の通りには、芸者さんや白雪姫、看護婦さん、セーラームーンなど、様々に扮したホステスさんが行き交って、いつもと違う雰囲気となります。主に大阪・京都に見られた風習から来たようで、京都の祇園で行なわれている他、東京浅草でも行なわれているようです。以下、関連文を掲載しました。
「大阪方言事典」から
=オバケ【お化け】=
年越(節分)の日、老女は若い時代を追憶するために島田や手鞠髷に結い、若い娘は早く良縁があるように丸髷などに結って縁起を祝ったもので、これをお化けと称した。
明治末年頃まで、この「お化け」の風習は残っていた。戦前、節分の日に、若い娘たちの間に日本髷がはやり出したとき、これをお化けといっていた。
『道頓掘の一夜』(真山青果、『演芸画報』明治四十四年七月号所載)に、「或る蓄音器商店らしい店頭に来た時、そこの前にズラリと十何台かの花枝に飾られた車が並んでいた。通行の人はその俥を取囲んで、周囲から眺めてゐる。
『これが・・・・・』M君は前の俥から指さして私に教へたけれども、頬を強く吹いて行く風で言葉は聞えなかった。チラとのぞいた中から、道成寺で見る八重桜の長い振袖が見えたと思った。それから気を付けて行くと、十四五にして丸髷に結った小娘も見えた。又、能絵に見る高砂の尉の刷毛の長い白髪仮髪(かつら)を被った六つ七つの小児が負はれて眠って行くのも見た。通る人が一々見て、指きして、笑って行く。(中略)
『あれは、何んでした。途中俥の上で見ましたのは』
と、私は坐るなりかう云ってM君に聞いた。
『おばけですよ、今夜は』
『おばけ?』
『今晩は節分ですから、大阪ではおばけと云って、年忘れにいろいろの仮装をします。今に来ますよ。見ておいでなさい。随分奇抜なのがありますよ』
M君がそばからかう云って説明してくれた。
なるほど、来て居る。そこの桝には、三桝を引抜いて、御守殿風に装うた女連が来てゐる。また、黒縮緬の着物に白の手甲をはめた紅の青く光る大原女の一連れ、老人に装うた若い女、若い娘になった年寄った仲居、かう云った仮装の連れが、幕間ごとにゾロゾロと入って来る。見物はその度毎に喝采してその趣向を評し合って居る。かういふ場合の東京に見るやうな反感や侮蔑の声がなく、満都を挙げて今日の遊びを催してゐる悠長な所が見えた。それも私には珍らしく面白かった」
節分の夜の道頓堀の芝居風景の一こまである。
http://www1.sphere.ne.jp/pilehead/osaka/osaka_word/text/honbunona.htm
「映像に見る近代京都の生活文化」から
=節分のお化けでの余興(昭和初期か・撮影場所不明)=
男女の役が入れ替わっての寸劇からすれば、節分のお化けの時の様子であると思われます。町内の寄り合いで、節分のお化けの時に町内で遊んだ時の様子のようです。節分には、京都や大阪の都市部では、この日に仮装をして騒ぐ風習が江戸時代からあり、昭和40年頃までは一般家庭でもみられました。
http://www.kyobunka.or.jp/phot/chonai.html
「京の歳時記」から
=花街にでる「お化け」=
「今晩は、お化けどす」祇園では節分を「お化け」と言って、芸妓さんがなにか趣向をこらしてグループで「仮装」を楽しみます。
ふつう祇園では、舞は井上流だけが認められていますが、節分のこの日ばかりは違います。他流の踊りも許され、芸妓さん達は思い切り「男装」して、羽目をはずします。「お染め・久松」「松の廊下」「水戸黄門」など。こんな衣装のグループが信号待ちをしながら、お茶屋からお茶屋へ移動するのですから、通 行人も思わず笑ってしまいます。今では、お客もこれに加わり思い思いの仮装をする様になりました。気のおけない友達とこの「お化け大会」やってみませんか。
節分の夜は、常連のお客さんでお座敷はいっぱいだそうです。
ひと目だけでも「お化け」に会いたい方は花見小路、四条通り、新門前通 りなど、夕方から深夜頃出かけてみましょう。運がよければ宮川町、上七軒、先斗町のきれいどころの「お化け」の一行と出くわすかもしれません。
http://www.e-kyoto.net/topics/02setubun/index3.htm#01
「折々の記」から
=冬のお化け=
節分は冬から春への節目で、豆撒きをしたり、門口に鰯の頭と柊(ヒイラギ)を刺したりして、新しい 季節を迎えるにあたって邪気を払いますが、同じ邪気払いの風習に「お化け」というのがありました。
「お化け」とは、節分の日に、老女が島田を結って振袖を着て娘の恰好をしたり、若い子は逆に丸 まげなどの奥さん風に結って縁起を祝ったもので、 人々が仮装して厄払いに神社に詣る「お化け参り」の風習もありました。一般には、江戸時代から明治の末頃まで、関西を中心に行われていたといわれていますが、家庭内では、昭和に入ってもずいぶん後まで残っていた風習です。
現在でも、この節分の「お化け」という風習は、花街に残っていて、夜になると芸妓さんや舞妓さんたちが二三人の組みになり、それぞれ自分たちの好きな仮装をして、お座敷を廻ります。時には、お客さんの方も芸妓姿に変身して待っていたりと、いろいろと面白い趣向が楽しめる日です。
冬から春への境目の日に、 変身願望のにじみ出た「お化け」の風習が蘇ると、少しは、社会のストレスも解消されるかもしれませんね。冬のお化けは、楽しいお化けです。
http://www.palette532.com/~inui/zuisou/z_fuyu2.html
「あさくさ発見会 井戸端会議」から
=節分=
大瀧:
ところで望月さんは「お化け」ってご存知?
望月:
お化けですか?私はまだお化けには出会ったことはないですし、敢えて会いたいとまでは?
鴨下:
まぁそのお化けではないんですがね。
立春の前日(2月3日)に行なわれる節分会で、邪悪を払うおまじないの豆まき当日、芸者衆が思い思いに工夫を凝らした仮装をしてお座敷に出て、お客を楽しませる年忘れ(旧暦)の行事のことです。花街での記録は資料として残っておりませんが現在の形は戦後の復興からまもなく、昭和二十四、五年頃から行なわれたようです。
大瀧:
浅草花柳界・各料亭では節分会仮装と言って、今年は、2月の1・2日と4日の三日間、仮装した芸者衆にお座敷で会えると思いますよ。
望月:
でもそうすると、節分会の時期、この浅草は春いっぱいの賑やかで艶やかな雰囲気に包まれるというわけですね。
丸山:
まぁ長い間続いてきた浅草の伝統行事を大切にしながら、いつまでも賑やかで艶やかな浅草を世界に発信し続けていくことができれば、ここで生まれ育った私たちとしてはこれ以上の幸せはないと思っていますがね
http://www.asakusa-hakkenkai.com/kaigi/200202.html
キック(株)は1991年、北新地を利用するお客様、お店、出入業者など、北新地に関わる方に役立つ情報を提供する事を目的とし、(株)北新地情報センターとして設立されました。設立当初より、全店の店名・電話番号が掲載された[新地新聞](A1サイズのMAP・年10回発行)を発行してきました。バブル崩壊以降の不況下、少しでも地域の活性化に繋がればという思いで、1996年よりインターネットで「北新地総合情報サイト」(KGNET)として北新地の情報を発信しております。
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